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ニッタ歴史館

Footsteps for 128 Years

  

100年を越すニッタの歴史館。
意外なものがニッタで開発されています。

国産第一号の動力伝動用革ベルト製造 1888年(明治21年)

動力伝動用革ベルト
動力伝動用革ベルト

当時創業者は、製靴用皮革製造に携わっていたが、その技術を生かした革ベルトを品評会に出展。そこで革のなめし技術が認められ、大阪紡績から動力伝動用革ベルトの製作を依頼された。それまでは、革ベルトは輸入品しかなく、高品質な国内生産品が求められていた。これに応える品質の動力伝動用革ベルト製造に日本で初めて成功したのがニッタだ。
このことがきっかけで、ニッタの紡績業界での知名度は非常に高まり、いまでも紡績用機械にはニッタの製品が使われている。

日本最初のタンニン固形エキス製造開始 1911年(明治44年)

国産初のタンニン製造当時の事務所
国産初のタンニン
製造当時の事務所

革をなめすためにタンニンを使用するのだが、創業者が槲(カシワ)の樹皮、ノブの根皮に良質のタンニンが含まれていることを知った。当時、革製品の需要増大のため、本州では槲、ノブが減少し、タンニンの原材料の入手が難しくなっていた。北海道十勝には槲樹林が多いことに着目、ここに日本初のタンニン固形エキス製造のための十勝製渋工場を設立。槲を伐採する一方、将来のために植林を開始した。このタンニンを採るための原料として使われた槲は、当初は樹皮しか使われていなかった。

ベニヤ板はニッタが元祖

新田ベニヤ
新田ベニヤ

槲の木から樹皮を剥ぎ取った後の幹の主な再利用方法は、鉄道の枕木などがあったが、それを合板として事業化。その後研究を続け、耐水耐熱に優れた膠接着剤を開発し、1923年、「ベニヤ」の登録専売特許を得た。
ベニヤの用途は和洋建築、建具、飛行機、汽車、汽船、楽器、玩具、自動車などにも広がった。

膠(にかわ)、ゼラチンの製造を開始 1917年(大正6年)

大阪柏原ゼラチン工場
大阪柏原ゼラチン工場

当時、国内での膠、ゼラチンの使用量は増大していたが、国産品は、生産量、質ともに満足のいくものではなかった。膠の原料がベルト製造過程の副産物であったことから、西洋の膠製造法を研究し、製品化にいたった。同じく工業用ゼラチンの製造も開始したので、膠及び一般工業用ゼラチンは輸入に依存する状態を脱した。その後、食・医薬用ゼラチンの研究をすすめ、さらに技術的に難しかった写真用ゼラチンの開発にも取り組んだ。
膠およびゼラチン製造のために工場を建設したのだが、この工場は、品質・生産量ともに東洋一の膠・ゼラチン工場であった。

北海道の牧場事業 1923年(大正12年)

北海道の牧場事業
北海道の牧場事業

1923年に広大な土地を活用し、本格的な牧場経営に取り組んだ。この牧場は軽種競走馬を生産していたが、乳牛にも取り組み、バターの製造工場を建設し、バターの生産を本格化させ、またコンデンスミルクの製造にも着手した。この事業はのちに、北海道酪農販売組合(のちの雪印)と明治製菓系の極東練乳に譲渡された。
第二次大戦後、新田牧場を設立した。ここではサラブレッドの生産を行っており、1967年には、日本ダービー馬、アサデンコーが誕生している。

小学校・高等商業学校を開校

小学校・高等商業学校の開校

当時、家計を助けるために働いて学校にも行けない子供たちがたくさんいた。その子供たちのために、創業者は1911年、大阪市で有隣尋常小学校を開校した。この学校の経営経費の一切を負担し、生徒の学用品、衣服、履物まで支給した。12年後大阪市にすべてを寄贈した。
また、1923年、創業者の郷里である松山に松山高等商業学校(現 松山大学)を開校。その創立費と経営費を出資した。
こうした活動は、創業者が技術と事業だけでなく、教育を通じて社会に貢献したいという考え方によるものである。

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